821〜822年の唐とチベットの
講和条約締結については、
ラサに残る唐蕃会盟碑や
漢籍史料で知られています。
1980年代初めに山ロ瑞鳳氏と
ハンガリーのJ=リセルブが、
この研究を進展させました。
この時の講和は唐・チベット以外に、
ウイグルとチべットとの間でも
結ばれた可能性が存在する事が、
敦煌出土チべット語文書と
後世のチべット語典籍史料から
推定される事が提唱されます。
唐とウイグルは安史の乱以降に
密接な関係を持っていたので、
これが事実であったとすれば、
唐・チベット・ウイグルにおける
三国会盟が成立していた事になります。
これを裏付ける史料は唐・ウイグルの
双方において全く発見されておらず、
これら巨大勢力の会盟の存在について、
不確定な状況にありました。
森安孝夫氏はパリに所蔵されている
敦煌文書の断片ペリオ三八二九番に、
「盟誓得使三国和好」と呼ばれる
文言が存在する事を発見し、
三国会盟に言及する文書として
一九八七年に概説論文で発表。
一九九七年に中国の李正宇が
サンクトペテルブルクに蔵された
とある敦煌文書の断片が、
ペリオ三八二九番と完全に
接合する事実が発表されます。
上下に切れた二つの文書から
復元された完全な文章により、
三国会盟の実在のみならず、
当時のチベットの領土が
河西回廊北方のエチナに達し、
国境線であった事が判明します。
しかしチベット・ウイグルは
唐と関係が悪かった事から、
これらが衰退した事により
唐が自由に動ける事となり、
会昌の廃仏が行われたと
伝えられてる状況です。
唐・チベット・ウイグルの
三国会盟の史料の発見が
これらのみと言う事は、
明らか不自然でしょう。
三つの巨大勢力の会盟を
大規模に隠蔽した勢力が
存在したと言うのであれば、
ユーラシア大陸を股にかける
影響力を行使した事になり、
その対象は絞られて来ます。