伴健岑は大伴氏の末裔ですが、
大伴氏では大伴家持が有名です。
家持は延暦元年(873)に
陸奥按察使・鎮守将軍を兼任、
784年には持節が東将軍となり、
翌年に死んだとされています。
死後二十数日の後に、
藤原種継暗殺事件が勃発、
死んだはずの家持なのに
喑殺を唱道したとして、
官位を追奪・除籍されます。
継人(つぐひと)・真麻呂(ままろ)・
竹良(ちくら)らも斬刑とされ、
家持の子の永主や継人の子の国道が
流刑に処されたと伝えられてます。
家持父子は大同元年(806)に、
桓武天皇の崩御の直前に
赦された事で復位しますが、
大伴氏はその間も活躍しており、
潔足は790年に参議なっています。
大伴家持は万葉集最後の歌人で、
東北で大仏に使う金を見つけて
歌を残したとされていますが、
なぜ東北にいたのに長岡京遷都の
重要人物であった種継の暗殺に
関わったとされたのでしょうか。
ここでの歌に大伴氏と佐伯氏が
軍事に関わる事を言及しており、
長岡京周辺の戦争に関与した
可能性を示していますね。
家持が長岡京の軍と戦ったなら、
伴健岑に至るまで朝廷の下に
取り込まれてはいなかった
可能性が高くなりますが、
承和の変の首謀者の一人に
建築峯が挙げられている事に、
重大な意味が含まれそうです。