パイドン

歴史の実直調査で山に登る事が良くありますが、
時々、死の覚悟が要求される状況があります。

痛いかなとか周りに迷惑をかけるかなと
言った類いの事は心配しますが、
何度か死にかけた事はあるので、
死ぬ時に後悔しない生き方を心掛けてはいます。

最近は古代日本とギリシャの関係を研究中で、
ギリシャ哲学の本も読みますが、
ソクラテスの時代と現代日本は
思っていたより似たところがあります。

一応、ギリシャの神々への信仰はあるものの
特別な教義がある訳ではなく、
民主主義で権力や欲に目が眩んで
身勝手をして逃げ切ろうとする人が多く、
そう言った人でも裁判にかけられれば
無実を勝ち取れば不死でも得るかの如く、
死に対する恐怖があるのも変わっていませんね。

ソクラテスの死に際について、
『パイドン』や『ソクラテスの弁明』で
詳しく語られています。

ソクラテスの弁明は文学的にも素晴らしく、
パイドンはソクラテスの処刑が決まった後に
ソクラテスとの会話を記した本で、
魂の不死について証明を試みています。

やり逃げしようとする人にはあの世の存在は都合悪く、
惨めな人生を送っている人にはすがりたい希望ですが、
ソクラテスは現世での生き方こそ重要としています。

ソクラテス自身は哲学の議論をしても
金を取る事も団体を組織する事もせず、
金儲けで宗教をする人物では無かった事が
対話の中で明確に分かります。

魂が不死であれば未来永劫のために
魂の世話をする必要があるとし、
死後の話を持ち出してもいますが、
ソクラテスは実社会の問題に取り組んだ後に
オマケであの世の話をしています。

孔子は母が巫女なのにあの世の話を重視しませんが、
身近なところから奥深くまで掘り下げていく
近思という考え方をしている所も似ていますね。

「パイドン」では知恵について、
知を永遠のものとの関わりで論じます。

魂が自分自身だけで考察する時は、
魂は彼方の世界へと、すなわち、純粋で、永遠で、不死で、
同じように有るものの方へと、 赴くのだ。
そして魂はそのようなものと親族なのだから、
魂が純粋に自分自身だけになり、
また、 なりうる場合には、
常にそのようなものと関わり、さ迷う事を止め、
かの永遠的なものと関わりながら、
いつも恒常的な同一の有り方を保つ。
魂はそういうものに触れるからである。
そして、魂のこの状態こそが
知恵(フロネーシス)と呼ばれるのではないか。

後にアリストテレスはネフローシスを
技術(ネクテー)、学問的知識(エピステーメー)、
知恵(ソピアー、技術の卓越性)、
知恵(ヌース、直感的なもの)と共に挙げて
思慮あるいは実践知と定義しているので、
ソクラテスの定義とは違う使い方をしていますが、
この定義だとヌースに近そうですね。

愛知とは本を読んで得られる知識ではなく、
仏教で言うところの般若のようなものを
知と語っているとすれば、
プラトンにおいて追及される国家とは、
永遠で恒久的なものを基盤にして運営される
生死を越えたものであり、
アレクサンダー大王の目指した世界帝国も
このようなものだったのでしょうか。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. シャイニー より:

    死を観ることは活きる事
    ウイルスは資本主義を壊すまで続く気配がします
    買おうと思えばいくらでもカネで買える無罪をあえて買わず 死を賜る
    英雄無きその後を活きなければならないけれど 残った者の心に生きています 常に対話出来ますからブレた行いをしたら恥ずかしいですね

    • Katsuyoshi より:

      現在、プラトン全集を読破中ですが、
      ソクラテスは一般に思われている以上の知恵者だったようですね。
      恋愛から政治、仏教思想のようなものまで幅広く扱っています。
      彼がここまで有名になったのは死に臨んだ時の生き方によるもので、
      現代の政治家でここまで出来る人は少ないでしょうね。