中国では唐の後に宗が興っていますが、
日本と宋では正式な外交貿易がなされず、
一般人の渡航が禁止されたとされますが、
宋の商人が博多や薩摩坊津、越前敦賀などに
来航して私貿易が行われていたとされます。
『宋史』には次のように記されています。
天聖四年十二月明州言
日本國大宰府遣人貢方物而
不持本國表詔之其後亦未通
朝貢南賈時有傳其物貨至中國者
(宋史・卷四九一・外國伝・日本國)
大宰府から貢物が送られても
本国の詔を持参しておらず、
その後に来なくなったとされ、
外交的に薄い感じの記録です。
日本は宗のみでなくアジア諸国とも
関係が希薄な時代とされてはいます。
日宋貿易で平清盛が巨万の富を得て
1167年に太政大臣となっていますが、
女真国が宗と共に契丹に侵略し、
1125年に滅ぼされたとされるので、
契丹が無くなった後の話ですね。
日宋貿易は唐に逃げ延びた
ササン朝ペルシャ人の影響が
非常に強く見られますが、
数少ない契丹の歴史書の一つは
北宋の文献とされているので、
重要な内容の隠蔽がありそうです。
宗は契丹とかろうじて関係を保ち、
中国の帝国がアジアをリードした
日本に根付いている歴史観とは
違った勢力地図であったようで、
宗<契丹であった時代背景下で、
志多羅神上洛事件が起きています。
石清水八幡宮に謎の神の御輿を担ぎ、
大勢で踊りながら参詣に行ったのは、
契丹成立によるアジア情勢の変革と
無関係であったとは言えないでしょう。
道真公が遣唐使を廃止したとされ、
大宰府に左遷されたとする伝承には、
志多羅神から「ええじゃないか」まで
連なる一連の核心があるのでしょうか。