孔子怪力乱神を語らず

孔子怪力乱神を語らずと論語に記され、
儒教はあの世や神霊などの存在を
否定していたと考える人がいますが、
これは純粋に読書不足の解釈で、
『春秋左氏伝』にこう記されています。

人生始化曰魄。
旣生魄。陽曰魂。
用物精多、則魂魄强。
是以、有精爽至於神明。
匹夫匹婦强死、
其魂魄猶能馮依於人、
以爲淫厲。

人が生まれ初めに化すのを魄といい、
魄が生まれた後の陽を魂といいます。
物を用いるに精多ければ魂魄は強くなり、
ここをもって精を磨けば輝く神に至ります。
いやしい男女でも非業の死をとげれば、
その魂魄が人に憑依し諸々の怪異をなします。

儒教では陰陽論を重視しているので、
片手落ちの話をしないところが、
バランス感覚があって良いですね。

儒教における性善説の解釈が、
己を磨けば神に至るとせず、
騙されやすい世間知らずの
思想とするのが間違いな事が
理解出来る一文でしょう。

孔子は某学研ムーや都市伝説的な話を
しなかったと言う程度の話であり、
巫女の家系に生まれていた事から、
神々についても詳しかったようです。

朱子はオカルト的な事を聞かれた時に、
話しても理解出来ない事ではあるが、
学びが天徳に達すれば自然と分かると、
基礎から順番に進めるよう奨励します。

むしろ実社会での研鑽がそのまま
神々に通用するとしている事から、
実社会の道理に精通する事を重視し、
地に足がつかずに霊的な話をするのは
弊害があるとしている様ですね。

後醍醐天皇が朱子学を研鑽させた事から、
無礼講でエロいお姉さんの接待を楽しみ
欲で取り込まれた南朝臣下のイメージは、
大幅に変更が必要ではありそうです。

むしろ神々に通じる臣下達によって
優れた政治が行われていた可能性も
なきにしもあらずと言った所ですが、
室町幕府の政治と比較された時に、
幕府が低劣に見えかねない類いの話は、
絶対的に否定したい所だったのでしょう。

南朝は皇族が率先して修験道に励み、
呪術修行をなしていたようですが、
実社会の基礎を重視した上の話で、
オカルト能力を求めての修行とは
レベルが違った事が伺えます。

儒教経典の中に『易経』がありますが、
官僚が占いに頼るのは余りに頼りなく、
天地の道理に精通するための学問として
重視された事は認知度が低いですね。

現代では神社も小遣いをねだりに行く程度で、
神秘的な力を安価で利用しようとする様な
志の欠落したケースが多くなっていますが、
儒教では神々の域まで自らを磨き上げ、
協力して輝ける世を創って行こうとします。

神々から恩恵を受けるだけでは幼稚なので、
自らを磨き上げ責務を果たすとするのが
南朝の官僚の基本姿勢であったなら、
不正をしても死ぬまで逃げ切れれば良いと
無責任の横行する現代に見直す必要のある
在り方なのかも知れません。

直近では江戸時代の在り方も偏向され、
見直しが進んで来てはいるのですが、
南朝は大きな分岐点となっているので、
南朝研究の在り方に大きな見直しが
必要とされているのでしょう。

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