後醍醐天皇の数ある皇子の中でも
重要な働きをしたとされる人物が、
静岡県西部に拠を構えていました。
遠州の南朝拠点は堅固であり、
ここを落とすために十万もの兵が
導入されたとされます。
井伊谷宮に祀られる宗良親王は、
山上の三嶽城に籠城したとされますが、
ここに三嶽神社が残されています。
騎馬戦が発達したこの時代における
山城での籠城戦の価値は非常に高く、
山城が多かったとされています。
三嶽神社は延喜式神名帳に記載された
遠江国引佐郡大敬神社とされており、
三嶽大権現と称されていたそうです。
後醍醐天皇が遠江の地に蔵王権現を
奉祈せしめよと皇子の宗良親王に命じ、
三嶽神社の地に蔵王権現を祀った事から
大権現の名が付けられたようです。
御岳と言えば蔵王権現を祀る神社に
御嶽神社が存在していますね。
後に明治維新により神仏混合が禁じられ、
蔵王権現と同体とされる安閑天皇を
祀る事により抜け道としたようですが、
南朝は真言密教を信奉したとされるものの、
修験道であった痕跡は数多いです。
大覚寺もその裏山で山岳修行がなされ、
真言密教と結び付いた修験が行われ、
座って行をするだけのものでは無く、
南朝は縄文に由来する山岳崇拝と
密接に関わっていたのでしょう。
長慶天皇の遺品には法螺貝を初めとした
修験の道具が揃っているので、
天皇であっても山道の長距離歩行を
難なくこなしていた事でしょう。
修験と言えば開祖とされる役小角は
壬申の乱で天武天皇と共に戦ったとされ、
先住民族祭祀に密接に関わっています。
蔵王権現のメッカは吉野とされており、
渥美半島の蔵王山周辺の田原の地名は、
吉野から来たとされています。
南朝の拠点とされた吉野の地は、
修験の霊場である事は確かですが、
『東三河の徐福伝承』に書いたように、
田原の地名は吉野から来たのではなく、
渥美半島に元からあったようなので、
こちらの蔵王山がルーツなのでしょう。
後醍醐天皇が属した大覚寺統は
真言密教の寺院とされていますが、
後醍醐天皇と密接の関係は指摘されても
修験道との関係を掘り下げられる事は、
余り目にする事はありません。
現場を知らない引きこもりが
座学で好き勝手言っていた様な、
愚昧な統治のイメージの捏造を
意図していた可能性もありますが、
先住民族祭祀との関係の隠蔽が
やはり主目的だったと思います。