道真の怨霊がウンヌンと言うと話は、
道真公が没した5年後の908年10月7日に
左遷の首謀者の一人される藤原菅根が
死亡した事に端を発したとされますが、
唐の滅亡が907年と伝えられています。
唐の滅亡後に怨霊の話が出たなら、
背景に横たわるアジア情勢の変化を
洗い直す必要があるのは間違いなく、
何故ここまで波風がなかったかも
疑問に感じる所ではありますね。
筥崎八幡宮建立がアジア情勢の
キナ臭い変化に対応した物なら、
アジアとの窓口である大宰府に
道真公が左遷された話には、
強い疑問が生じてきます。
道真公をアジアとの関係で
深く研究した書を見た事は
私の経験上皆無であり、
それ故に研究する余地が、
多分に存在する事になります。
道真公は外交官としても有能で、
周辺諸国との関係においても
成果を上げてきたとされます。
本丸に踏み込む前にこの周辺を
洗い直す必要が存在するので、
当時のアジア情勢と日本の関係を
洗い直してみる事にしましょう。