契丹古伝のヤマト

『契丹古伝』の「旧史」は、
ヤマトの記述から始まっています。

塢須弗(ウスボツ)の耶摩駘記に曰く、
その国、つまりヤマトの国が
いまだに滅亡しない理由は、
天職として深く上古の歴史や伝承を研究し、
先代について明確な知見をもち、
神理をつまびらかにし、
歴史(書)を正確にしているためである。
ヤマトは「秋洲」ともいうが、
これは「阿基氏末(アキシマ)」と読む。
思うに、それもまた「阿其比(アキヒ)」、
つまり神の和魂(アキヒ)をとって
そう呼んだのである。
(第七章東族振興の四大要道)

渤海使節のウスボスが書いた
「耶摩駘記」に言及された
ヤマトの歴史に対する記述が、
契丹で重視されたようです。

歴史を学び、先代の経験を観察し、
神の摂理を詳しく研究し、
正しい史書を作った事を四大道と呼び
東大神族振興の要道としたとされ、
日本をヤマトとしたのは意味深です。

この書を書いた人物が東丹国から
使者として日本に来たのであれば、
契丹は古代ヤマトを含めた東大神族の
復興について持ち掛けに来た可能性が
非常に高いものとなるでしょう。

支配者側が歴史書を書き変えるのは
歴史に多大な影響力が存在するからで、
これを正しく扱う事が国家を存続させる
要とした契丹の見識は非情に高く、
それ故に大帝国となったのでしょう。

道真公が大宰府に左遷された後に
死んで怨霊となったとする伝承に、
大きな疑問が浮かび上がるだけの
周辺情報が存在しているなら、
新たな研究の流れが必要でしょう。

アジア情勢の再編成の時期に
道真公が左遷され死んだ伝承には
総合的に見て無理が余りにも多く、
この動きに大きく関与していた
可能性が非常に高い物となります。

道真公の死の伝承にどのような謎が
秘められているのでしょうか。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする