足利氏の先祖とされる八幡太郎義家の遺言に
われ七代の孫に生まれ替わりて天下を取るべし
とあるのを果たせず切腹した足利家時は、
わが命をつづめて三代のうちに天下をとらしめたまえ
と遺言を残して死んだと『難太平記』にあり、
著者の了俊は家時の孫である尊氏から
遺言を見せられ感動した事が伝えられています。
家時は弘安七年(1284)に死亡したと推定されており、
政局が安定していて権力を得られない状況に対し、
責任を負って自害したものとされています。
翌年の弘安八年(1285)に霜月騒動が起こり、
鎌倉幕府内での権力闘争が全国に波及し、
北条家の独裁体制が敷かれ両統送立が始まり、
後醍醐天皇が登場した後に足利尊氏が反逆し、
室町幕府が出来た流れには当然の如く疑問が出ます。
本当に家時は霜月騒動の前に自害していて、
予言通り足利氏が天下を取ったのでしょうか。
1251年に足利秦氏が謎の自由出家した事により、
足利氏は鎌倉幕府内での力を削がれていますが、
秦氏の出家もクーデターと関係があると見られ、
足利氏は武力と謀略で幕府を乗っ取るために、
様々な手を打っていた線は濃そうですね。
もし霜月騒動以降が捏造であった場合、
鎌倉幕府は北条氏独裁政権ではなく、
後醍醐天皇は持明院統と対立しておらず、
鎌倉幕府と融和的な路線で王朝を樹立し、
足利氏が天皇家を擁護しこれに戦いを挑んだ
可能性が浮上してくる事になるでしょう。