近年は西洋的な思想をベースにした
地球の破壊が行われて来たので、
自然界との調和の概念なども
盛んに語られる様になりました。
しかしベースに一神教に見られる様な
自然を人の下に置く思想があるなら、
搾取し過ぎて瀕死の状態の奴隷を、
どう扱うか程度の話になりそうです。
古代アジアの自然からの恵みに対する
記述は無いかと調べて来ましたが、
孔子の言葉は非常に興味深いですね。
客曰、敢問、誰守爲神。
孔子曰、山川之靈足以紀綱天下者、其守爲神。
社稷之守爲公侯、山川之祀者爲諸侯。皆屬於王。
客は言った、敢えて問うが、
誰を守り神とすればよいか、と。
孔子は答えた、山川の霊で
天下を治めるに足る者を守り神とする。
公候は社稷の守をなし、諸侯は山川を祀る。
みな王に属する、と。
様々な山を登ると山にも個性が
あるように感じられますが、
古代アジアでは山川の霊とも
どう関係を構築すれば良いか、
議論された事が分かりますね。
子供の頃に川で遊んでいると
何故か楽しかったのですが、
川に遊んで貰っていたのかと
今では考えている所です。
山が天然のダムになる事で
豊かな水資源が確保でき、
農作物や飲料水が得られて
生存が可能となって来ます。
自然の恵みも山川の霊が
もたらしてくれる物と
考えられていたのなら、
王の責務としてこれらを
祀らせていた事について、
見直すべき所があります。
生存に関わる恵みを与える
存在を低く扱うのであれば、
人として最低限の礼儀を
欠いた行為となるでしょう。
植物に魂を認めるものの、
人より低い物として扱う
アリストテレスの哲学が
キリスト教圏に導入されて
現代にまで至っていますが、
多民族を奴隷とする思想と
根本的に変わりません。
旧約聖書のテーマは兄弟対立で、
農耕の兄を狩猟の弟が殺し、
長子権を騙して奪い取る話は、
世界情勢に反映されています。
優れた兄なら弟を見下さず、
兄としての責務を果たすだけの
優しさと強さがあるでしょう。
現代の世界情勢を見てみると、
良さそうな理念を掲げていても、
根本的にこの思想の上での
権力闘争がベースにありそうな
話が見受けられる事があります。
視野が狭いと同じ穴のムジナに
仮になっていたとしても、
気付かない事もありそうです。
これからの時代はヘレニズムに
学ぶ事が必須となって来るので、
こう言う視座を持っていても、
損にはならないでしょう。